"自分のことは自分でどうにかするので、妻と娘のことだけは何があっても助けてあげてください"
その日、アイツの表情はいつもと違ったんだ。
近所の飼い猫は夜になるといつもこの辺りを散歩していて、道ゆく人に鳴きながら擦り寄って行く。ただ、その日は様子が違った。
陣痛の痛みが強くなってきた妻を病院に連れて行くべく車のエンジンをかけたとき、アイツは現れた。なぜか道路の端を動かない。いつもはそんなことはないのに、きちんと座ってこちらをジッと見つめている。
猫は安産の象徴と言われる犬よりも実は安産な動物だ。
しかも交尾の際に排卵するという特徴もあり妊娠率がとても高い。不妊治療が保険適用になるような現代において、何とも羨ましい特性と言えよう。
そんな猫だから、待望の子宝に恵まれた私たちは神様のように接してきた。縁起が良い。お産はスムーズだろう。私はそう思った。
妻の陣痛の痛みはいよいよ強くなってきて一刻の猶予もなかった。病院に着くと私は駐車場で待機させられ、妻の電話を受けてCOVID-19の抗原検査を行なった。
よかった。陰性だ。立ち会い出産ができる。
少し緊張していたが、とにかく急いで病院へ入った。
看護師さんに検査結果を見せ、ガウンに着替えた。ナースステーションの外で待つ。立ち会い出産ができると言っても、出産直前にしか分娩室には入れないらしい。
病院の廊下から見える踏切をずっと見ていた。時刻は深夜2時過ぎ。電車は通らない。
そんな時、看護師さんに呼ばれた「旦那さん、ちょっとこちらへ」。
とても嫌な予感がした。
妻のいる部屋へ行くと赤ちゃんの心音がモニタリングされている。ただ、とても早い。
先生がこう説明した「破水の際に子宮内感染したと考えられます。赤ちゃんが苦しそうなので、すぐに出してあげないといけません。子宮口が十分に開いていないため、緊急帝王切開します」
私は言葉の意味は理解できたが言葉が出てこなかった。リスクはないのか?どのような手術なのか?それくらいのことは聞くべきだろう。でも、「お願いします」としか言えなかった。
この事態についていけなかったのだ。
自分に何ができるのだろう、と考えたのかもしれない。
私は妻を手術室まで見送った。その光景を今でもはっきりと覚えている。
大きなお腹を押さえながら、少し笑顔で「行ってきます」という妻に私は「頑張って」と消え入りそうな声で伝えた。
子どものためにお腹を切る手術に臨む妻に対して何と気の利かないことか。この10ヶ月頑張ってきたのに。この後に及んで、頑張って、とは。
指先を紙で切っただけで大騒ぎする私などとは比べ物にならないくらいに強く責任感のある妻にもっとかける言葉はあったろうに。
しばらく廊下をウロウロしながら待っていた。何分経ったかはわからない。時刻は深夜の3時半を過ぎていた。帝王切開ってのはこんなにも時間がかかるのか?
すぐに赤ちゃんを出してあげないと危険なんだろ?
どうしても気になってナースステーションを覗くと看護師さんたちが慌ただしく動いている。一人の看護師さんは電話で誰かと話している。
何かが起きているようだ。それも良くない何かが。
じっと覗いていると院長先生らしき男性と目があって手招きされた。
「赤ちゃんは3時2分に産まれています。ただ、赤ちゃんは呼吸が上手くできていません。腕に力も入らないようです。すぐに近くのNICUのある病院に搬送します」
コイツは何を言っている?俺の子の話をしているのか?
ただでさえ緊急の帝王切開だぞ。それに加えて夫婦が心待ちにしている子どもに何か起きているなんて、理解が追いつかなかった。
何も言えずにいると院長先生が付け加えた。
「奥さんは無事です」
俺には当たり前のことすぎて聞くのを忘れていた。何かあるなんてことは想像できないのだから。よかった、本当に。
病院へ搬送する救急車を待つ間、赤ちゃんと妻に面会できた。
赤ちゃんは元気そうに見えた。院長先生が赤ちゃんの腕を持って説明する。
「少し力が入らないのです。呼吸が上手くできないのは帝王切開だとたまにあることですが、念の為搬送します。写真を撮っても良いですよ」
写真を撮った。女の子だ。看護師さんがオムツをめくってくれた。
とても可愛い。
妻は元気そうだった。もちろん術後で動けないが出産を終え安堵しているように見えた。
そうこうしているうちに救急車が来て、私たち夫婦は娘を見送った。
時刻は朝5時近くになっていた。
看護師さんから呼ばれて明日病院から電話があると言われた。
明日というのは今日のことだ。
寝る時間はいらない。俺は何もしていないし。すぐに娘のところに行かないと。
妻にはしっかり休むように伝え私は車で帰路についた。
結婚して規則正しい生活をしているとこの時間に車で帰宅することなど初めてで変な感じがしたが、頭は至って冷静だった。
途中コンビニに寄ってコーヒーを買う。3月の朝は寒い。
運転しながらこれからのことを考えた。
院長先生は心配ないと言ったが、娘はどうなってしまうのか?
両親になんて説明する?
何をすべきかわからない。何ができるかも。ただ、私は妻の味方でいよう。
それだけは強く誓った。
車が家に着いた頃、朝6時をまわり完全に朝となっていた。
家の周りを少し見回ってみたがアイツはいない。
昨日見送ってくれたあの時の表情の真意を聞きたかったのに。
こうなることがわかっていたのか?
だったら先に教えてくれ。
先にわかっていたら少しは心の準備ができたのに。
いや、先にわかっていたところで、俺には何もできなかったかもしれない。
結局は覚悟の問題だ。
何が起きても目の前の事態から目を背けずに闘える、そんな覚悟がなければならない。
思えば俺には覚悟がなかったのだ。
夫、父親になるということを、戸籍上の続柄や経済的な役割分担の変化程度にしか考えていなかったのではないか。
かねてより行きたい業界への転職が良い条件で決まり、人生何もかも上手くいくものだと勘違いしていたのではないか。
自覚した。
とても深く。
俺は何もできない。
こんな時に妻に気の利いたセリフは言えないし、娘も救えない。
父親として以前に、人間としてのレベルがあまりにも低いことを痛感した。
アイツはそれをわかっていた。
あの表情は覚悟を問うていたのだな。
わかったよ。
できることからやることにする。
妻や娘、周りの人たちに恥じない人間になる。
そう誓って、私は近所の神社のお賽銭箱に財布の中のお札とコインを全て入れ、こうお願いした。
「自分のことは自分でどうにかするので、妻と娘のことだけは何があっても助けてあげてください」